インターネットの交友を含めた自分の周りには、日頃から「死にたい」と思っている人がそれなりに居ます。
その深刻さというか本気度というかは人によってもまちまちなのでしょうが、とりあえず全者共通の行動として、SNSなどで「死にたい」と周囲に発信しています。
また、さらにその中の一部の人は、練炭を買ってみたり、飛び降りてみたり、電車へ当たり屋するため駅へ向かってみたり、皆一様に各自の想像する死へのルートを辿ろうとしておりました(幸い誰も死んでませんが)。
原因が何にせよ、死にたいという思考は生物として正常な状態で無いと、私はそう考えています。
その上で最近考えるのは、「死にたい」と自分の目に見える場所で言われたときに、自分は何をどうするのが正解なのかという事です。
人の自由意志を尊重するのであれば「死にたい」という想い・主張に対して「はいどうぞ」と答えれば良いのでしょうが、それは人間の倫理に反していますし私の本心ではありません。
かと言って、「死ぬな」と無責任に引き留めるのもまた難しい話です。今の現実が辛い状態だからとっとと死んで全ての苦痛から開放されて楽になりたい、と思っている人も居るのでしょうからね。
この2つの想いは両立させることが難しく、だからといってどちらかへ傾倒し過ぎても危険な思考になってしまうのでは無いかと思います。
SNSの知り合いだろうが大学の知り合いだろうが、少しでも自分の人生に関与したことのある人間が死ぬのは寂しい事です。そりゃあできるなら誰にも死んでほしくないです。
死にたいなら死ねとも言えないし、死ぬなと気安く言うことも出来ないし。
なので私は今日も、死にたい人をただ静かに見守っています。