世の中は「概念」で溢れている。溢れかえっている。溢れかえり、波を打ち、我々をその荒波に飲み込まんとしている。
余りにもふわっとした言葉で申し訳ないが、実際にそうとしか言いようがないのだ。この星にある「概念」は到底一回の人生で楽しめる量のシロモノではない。
例えばマックでコーヒーを買ったとしてみよう。
まずそのコーヒー豆はどこで採れたものだろうか。土地によって、収穫方法によって、収穫時期によって、輸送方法によって、作り手の熱意によって、バイヤーの感覚によって味は変わるに違いない。
そうした豆をどのように加工しているかも気になる。浅煎りなのか、深煎りなのか、機械で挽いたのか、手で挽いたのか。それを抽出するお湯の温度も重要だし、硬水か軟水かという違いだけでもコーヒーは姿を変える。
それに容器を開発した人々は何を考えてあの厚さと材料を用いたのだろう。自分はなんだかちょっとデコボコした厚紙っぽいな~くらいにしか思わないが、実はとんでもない秘密が隠されているのかもしれない。
そうして手渡されるコーヒーをどう飲むか。そのままブラックで飲むのが一番手っ取り早いが砂糖を入れるのも良い。ここも一言に砂糖と言っても上白糖にグラニュー糖にきび糖に黒糖に三温糖にと様々な種類があるわけだが。他には気分によってミルクを入れラテにしてもらうのも一つの選択肢だし、無料のコーヒーフレッシュだけで済ますこともできる。
ここでは飲む温度にも気を使ってみよう。アッツアツのコーヒーは香りが高いのでアロマを楽しむのにうってつけだし、60度を下回った辺りのコーヒーは口に入れてもすぐ馴染むので味の深みを感じやすい。
――そう考えると、ただマックのコーヒーを頼むというだけでも非ッッッ常に豊かな可能性を孕んでいるということがよく分かるだろう。しかもそれらの可能性というのは、少しでも意識しなければ気づきすらしないことばかりである。
しかしこれ、見方を変えれば「一杯のマックのコーヒーだけでもとんでもなく楽しむことができる」という事になりえるのだ。
どんな概念であろうと実際に触れたり能動的に情報を集めたりすれば、その概念に対する「解像度」が上がる。この「解像度」が上がれば上がるほど、この世界というのはどんどん面白くなっていく。
これこそ私が「勉強」は大嫌いだが「学習」は大好きな所以である。
料理を始めてからは塩一つで味が変わることを知り、何気なくやる料理の工程全てに意味があることを学んだ。
楽器を始めてからは曲を聴いてもボーカル以外の部分に注目できるようになったし、自分の表現の幅が広がった。
ペンタブを買ってからは綺麗な線一本を引くことが、色を一色塗ることがどれほど難しいかを知った。
歌の録音をするようになってからは、世の中の歌ってみた動画が「ただ歌を歌ってオケに合わせて終わり」というものでは無い事を知った。
VR機器に触れたことの無い人生が嫌だったので、Oculus Quest2も買った。
こうした解像度の上昇が無ければ、このようなアウトプットをするためのブログを書くことも無かったかもしれない。とにかく「その概念を知る」という事は非常に人生を豊かにしてくれる。
そういう意味でも私はやりたいと思った事をすぐにやるし、何かやってみようかな~と踏みとどまっている人の背中を(全く無責任に)蹴り飛ばす。
世の中は何だってやってみなきゃわかんねぇのだ。