最近「ニンゲンという種族の命」についてよく考えている。
一つ確かなこととして言えるのは、生き物である以上遺伝子情報を残すのが一つの大きな目標であるということ。
ただこれは明日明後日「さ、遺伝子情報を残すぞ〜」と言って達成できるものではないし、その前提に愛だの恋だのといった人間独自のシステムが構築されており、非常にややこしいので一旦置いておく。
では「遺伝子情報を残す」という生命の根源的な目標ではなく、ニンゲンという独自の種族に生まれたからこそ到達できうる目標とは何なのだろうか?というのが最近の悩みなわけだ。
例えばスポーツを極める。
例えばアーティストとして大成する。
例えば宇宙に挑戦する。
ニュースに乗るようなこうした事例はまさに一つの答えだと思う。
じゃあ、今からこういう人達を目指せるかと言われると、かなり難しい話になってくるだろう。これは青春やら自由やら家庭やらを犠牲にした人たちの中のたった一握りが到達できる場所であり、それを今から目指そうなどとなると、ありとあらゆる物を生贄に捧げてもなお足りないはずだ。
しかもこういう人たちは「さ、スポーツや音楽を極めて人間史に名を残すぞ〜」などと考えてはいないのである。あくまでやりたいことをやるという自我の解放、自分の心と向き合った末の自己表現を行った先に待っていたのが、たまたま他者からの評価なだけだ。
こうした部分から考えるに、自分には表現したい感情や自我というものが、極めて欠乏しているのではないかと思うわけである。やりたいことは人並みにあっても、その結果として得るのは見識という平面的な情報であり、それが自分という人間自体を構築しているかと言われればう〜んという反応にならざるを得ないのだ。要は中身スッカスカなのである。たぶん。
そのくせアーティストっぽいことをしたいなどと考えているので手に負えない。「表現したいものがないのに表現はしたい」という矛盾は極めてクリティカルな問題であり、音楽理論が身についていないから曲を作れないとか、そういう次元の話では無いのだ。表現したいものという目的があって、初めて音楽理論という手段が活きるのだと思うし。
だからといって諦めるのは逃げなので、そうした欠乏を理解しつつも何らかを表現したいとは思う。
「このまま何も生み出せないのか?」という漠然とした焦りのような物が常にあるが、義務感で良い物が生み出せるとは全く思えないので、その辺は時と心と情熱が満ちるのを待つのみなのかもしれない。
さて、自分は一体何を以てニンゲンとしての人生に轍を残すのだろうか
当分はこれを見つけることがまず最初の目標になりそうである。