むちむちサキュバスになる俺を見ている22歳成人男性の俺

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short furred orange cat on brown surface

「他人から見た自分」という認識は、人生において極めて重要だと思っている。

傍から見た自分がどう見えているのかというのを常に意識していれば、自分自身をどう見せるべきなのかはハッキリするし、そうすれば学校や仕事先、バイト先等のコミュニティで上手く立ち回れると考えるからだ。

ただ、時にこの「他人から見た自分」という視点に意識を割きすぎるが余り、純粋に物事を楽しめない事が多々ある。

例えば遊園地。

USJでもディズニーランドでも富士急でも何でもいいが、とにかくはしゃいでウかれてゴキゲンな蝶になった方が楽しい場所を想像頂きたい。

私はそんな場所にわざわざお金を払って行ったとしても、常に「なんかアイツめっちゃウかれててウケるw」と指を指されているんじゃないか、なんて意識がチラついてしまうのだ。間違いなく自意識が過剰なだけなのだが、一度身に染みついてしまった思考というのはそうそう簡単に取れるものではない。

この「他人から見た自分は恥ずかしくないか」という意識は、遊園地だけでなくVRCやMMOのゲームといった、他人と関わることを前提としたコンテンツにおいても、大いにしゃしゃり出てくる。

なりたい自分になれるプラットフォームでも、傍から見たときにどう思われるかを想像してしまうのである。

VRCの世界には、おそらく「バインバインでSUKEBEなサキュバスになっている中年の男性」が数多く存在する。なりたかった自分になる、まさにVRCの真髄とも言える遊び方であり、第二の人生を歩みだした勇気と行動力には大きな賛辞を贈りたいほどである。ナイスバインバインだ。

が、これを自分ができるかと言われたら絶対にできない。「むちむちのアバターを使っている22歳成人男性の俺がその場に誕生する」という客観的な事実が、自分の精神にとって極めて苦痛であるからだ。

また、より当たり判定を広めるとすれば、インターネットそのものが現実の自分である必要のない場所であるのにも関わらず、親に見られて、友達に見られて、他人に見られて恥ずかしくない自分で在ろうとしてしまう。これは一朝一夕でどうこうなるものでは無いし、どうこうしようと努力する事すらもが苦痛なのだ。

だってそこのお前も見てるんだろ?

──もし何かが違えば、ツイキャスで吐息を撒き散らしていたかもしれないし、むちむちアバターでお砂糖を作っていたかもしれないし、「狂ってる?それ褒め言葉ね。」というキャラクターでTwitterを運用していたかもしれない。

他人が見たときにどう思う?ではなく、自分がやりたいからやるのだ!という強い意志の力。いつかは身につけたいものだ。

まぁそれでもむちむちサキュバスにはならないけど。

-日記的な

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