
――肉が食べたい。
この欲求は自分がヴィーガンにでもならない限り、ある程度の周期を持って襲い掛かるものだと私は思っている。
この「肉を食べたい」という欲求の中身というのは実に様々であるのだが、その中でも特段”焼肉が”食べたいという思いは非常に衝動的なものように感じる。
赤身のステーキでも、ローストビーフでも、豚の生姜焼きでも、鶏肉のソテーでも満たせない「焼肉」の欲望。脂の焼ける甘い香りと醤油や味噌といった日本人の血水とも言える味のタッグマッチ。
これは「焼肉」でしか味わうことができないという事を私の身体は知っているのだ。
この衝動にも近い欲望は、金の無い成人男性をも容易に突き動かすほどの爆発力を持っていると言えよう。
目次
起

そして私は修行を積んだお坊様でも煩悩を断ち切った仏でも無いので容易にそうした欲望にあっさり敗けてしまう。
というかむしろ除夜の鐘で存在が消えかける程度には煩悩に溢れている。
それゆえ、何の記念日でも節目でも無い日に、唐突に一人で焼き肉を食べに行くという事を平然と行ってしまう。
金の無い大学生の行動としてはいかがなものかと思うが、これは「衝動」によるものであり自分の中の獣を飼いならす為の儀式でもあるのだ。
承

一人焼肉の良いところ。それはやはり「自由」であることに完結するように思う。
自分の食べたいものを、食べたいときに、食べたいだけ注文できる。これができるというのは間違いなく開放感に溢れていると言える。

「初めて人とカラオケに行くときは当たり障りのないJPOPで様子見をする」
というような、いわば「暗黙の了解」とも言えるようなものが焼肉には存在していると私は思っている。「とりあえずナムル・キムチを注文すること」であったり「初手はタンを注文すること」であったり。
こうした接待力こそ社会で役に立つという意見も勿論分かるのだが、やはりそうした作法やマナーを気にしながらする食事というのはどうしても気疲れしてしまうものだ。それが例え仲の良い友人であったとしても。

その点において一人焼肉というのはとことん自由だ。
初手でいきなりハツを頼もうが、自分が気に入った食べ物を擦り続けようが、ご飯をお代わりしようが、グランドフィナーレにレバーを持ってこようが。
ここで誰かの気を使う必要というのは全く無い。
とことんまでに「己の欲望に忠実な焼肉」を行うことができる。
一例までに私の焼肉を表現するならば「米・肉・酒」という焼肉になる。私が独りで行う焼肉には、キムチやナムルといったお出かけ用の箸休めなど存在しないのだ。
転

そうして考えると、逆に「人と焼肉に行くこと」のコストの重さが分かりやすく浮き出てくるのではないだろうか。
肉を焼いている時間を会話で潰すことができ、
焼き肉という時間のかかる食事に行けるほどのまとまった時間を確保でき、
決して安くは無い金額を払うことができる人。
そんな人を身内の中から選抜しなければいけないのである。

そうした選抜基準を突破できるような人間というのは、もはやイコール「一緒にユニバに行ける人間」であろう。
アトラクションの待ち時間を会話で潰せ、
場合によっては朝から夜までというまとまった時間を確保でき、
チケット代や食事代といった高いお金を用意できる人。
どうやら「焼肉」というのはユニバーサルスタジオジャパンと同次元に存在しているらしい。
結

……といった物思いにふけりながら食事ができるのも一人焼肉の良いところである。
7月にも入ったという事で食事を終えて外に出てもまだこの明るさ。明るいうちに美味い肉を食べ、酒を飲み、自らの思考に耳を傾けるというのは人生においても屈指のレベルで充実感がある行いだ。
吾日に吾が身を三省す。これは非常にストイックな教えだが、肉を食いながら三省できれば曽子もさぞかしニッコリであろう。
ただ、独りで行う焼肉こそが「答え」なのかと言われればそれも違うと私は思っている。
仲の良い友達としょうもない会話をしながらじゃんけんで一切れの肉を奪い合う。そんな焼肉も幸せだなぁとは思わないだろうか。
物事は何においてもバランスが重要なのだ。
という訳で枝は一緒にユニバに行ってくれる友達を募集しています。